ログイン白い市松人形は、大学の備品棚で一晩を過ごした。
映像研究会の部室、その一番下にある金属製の戸棚。怜吾は機材箱ごと人形を入れ、扉へ養生テープを三重に貼った。剥がせば跡が残るよう、テープの端には黒いペンで自分の署名も入れていた。
翌日の午後、署名は切れていなかった。
鍵にも傷はなく、戸棚の中の機材箱も昨夜と同じ位置にある。
ただし、赤黒い布からあふれた髪だけが箱を越え、棚板から床まで垂れていた。
「一晩で十五センチ」
怜吾が定規を添え、カメラを回す。
「昨日の映像と比較すれば、誤差では済まない」
「やっと信じた?」
ちとせは窓際に立ち、人形から距離を取っていた。
「髪が伸びたことと、幽霊の存在は別だ。内部に髪を送り出す仕掛けがあるかもしれない」
「鍵閉めてたの、怜吾でしょ」
「だから先に封印の状態を撮った」
机の上には、昨夜よりも多くの機材が並んでいた。小型カメラ、接写レンズ、集音マイク、紫外線ライト、精密秤。怜吾は自宅へ帰らず、そのまま編集室で夜を明かしたらしい。青白い顔の下には薄い隈が浮かんでいるが、指先の動きに眠気はなかった。
燈夜は窓を開け、禁煙の部室で煙草へ火をつけた。
「仕掛けなら壊して見せりゃいい。腹、切ってみるか?」
「壊す前の記録が先」
「昨日からそればっかだな」
「おまえが先に壊すからだよ」
怜吾は機材箱を両手で持ち上げ、中央の長机へ移した。
箱の底で、人形の歯が小さく鳴った。
イオの肩が強張る。
彼女は昨日とは違う白い厚底靴を履いていた。人形の歯が挟まっていた靴は、朝になると溝だけを深く抉られた状態で玄関に転がっていたという。歯は見つからなかった。
「捨てたの?」
美怜が尋ねる。
「あんな汚いの、もう履かないし。歯もどっか行った」
「記念に取っとけば売れたのに」
「欲しい人いる?」
イオは軽く笑い、スマートフォンで自分の顔を確認した。蜂蜜色のボブは丁寧に巻かれ、左右の瞳には新しいカラーコンタクトが入っている。寝不足を隠すように化粧は濃かった。
怜吾が遮光カーテンを閉める。
午後の日差しが消え、部屋には撮影用ライトの白さだけが残った。古いソファ、壁へ貼られた映画祭のポスター、飲みかけのペットボトル。見慣れた部室の中央で、白い人形だけが別の場所から切り取られてきたように浮いている。
「限定配信、開けるよ」
美怜が配信用端末へ触れた。
昨夜の騒ぎで登録者は一万人以上増えていた。告知から数分しか経っていないのに、待機人数はすでに八千を越えている。
「今日は〈KOWASU〉特別検証。人の中身で作られたっていう白い子ちゃんを、怜吾先生が丸裸にしまーす」
「裸にするのは外側の記録が終わってから」
「細か」
美怜は人形の髪を左右へ分け、亀裂の入った顔をカメラへ向けた。
イオに踏まれた額から頬へ、枝のようなひびが広がっている。欠けた箇所から陶器に似た白い層が見えるが、その奥は黒かった。口元には歯が隙間なく並び、昨夜抜けたはずの場所がどこなのか分からない。
「歯、戻ってない?」
美怜が顔を近づける。
「昨日、一本抜けたよね」
「映像と照合する」
怜吾は手袋をはめ、人形の顎へ指を添えた。抵抗するように閉じていた口をゆっくり広げ、小型カメラの先端を近づけていく。
モニターへ、人形の口内が大きく映し出された。
乾いて縮んだ暗赤色の歯茎。その上下に、形の異なる歯が密集している。
前歯の隣に奥歯があり、細い乳歯と黄ばんだ永久歯が同じ場所から生えていた。黒い穴の開いた虫歯。銀色の金属が詰められた歯。角の欠けた犬歯。根元へ赤い繊維を絡ませた、小さすぎる歯。
一人分の歯列ではなかった。
「作ったやつ、並べ方適当すぎない?」
燈夜が煙を吐きながら笑う。
「適当というより、空いているところへ順に足したように見える」
怜吾は映像を静止させ、一本ずつ番号を振り始めた。
「上に十七。下に十六」
「合計は?」
「三十三」
怜吾は画像の明度を上げ、歯茎との境目を拡大した。
接着剤で貼りつけたような継ぎ目はない。どの歯も暗赤色の組織へ根元から埋まり、細い血管に似た筋が絡んでいる。乾いているはずなのに、ライトの熱を受けるたび歯茎の奥から透明な液が滲んだ。
最も古そうな金属の詰め物には黒い腐食が広がり、その隣の歯には新しい治療跡がある。作られた年代が違うのではない。異なる時代、異なる口から抜かれたものが、一つの口へ無理に並べられているようだった。
「模型なら、こんな治療跡まで一つずつ変える意味がない」
怜吾の声から、いつもの皮肉が薄れていた。
ちとせの表情が固まる。
「成人でも、親知らずを全部含めて三十二本」
「一本多いじゃん」
美怜が笑った。
「歴代所有者の歯だったりして。持ち主が替わるたび、記念に一本ずつもらうの」
「歯は身体の中で、持ち主の名を覚えるものだって言われてた」
ちとせが呟く。
「抜けた乳歯を屋根や床下へ投げるのも、次の歯が正しい場所へ戻るように道を教えるため。違う身体に入れたら、その道も――」
「また始まった」
燈夜が遮る。
「三十三本あるなら、一本抜いて調べりゃ済むだろ」
ピンセットへ手を伸ばした燈夜を、怜吾が肘で押し返した。
「歯の特徴を全部記録してからだ」
接写映像がゆっくり右へ動く。
一つとして同じ色がない。年齢も手入れの状態も、治療法も違っている。生え替わる前の乳歯と、歯茎が下がった老人のものらしい歯が隣り合い、その間へ新しい白さの奥歯が押し込まれていた。
コメントが加速する。
『三十三本はおかしい』
『歯医者に見せろ』 『銀歯古すぎない?』 『乳歯混じってる』 『昨日抜けた歯どれ』怜吾は昨夜の映像を別のモニターへ表示した。
踏みつけられる直前の人形の口元。解像度を上げ、現在の歯列と重ね合わせる。
昨夜にはなかった白い歯が、下顎の奥に一本増えていた。
「追加されてる」
怜吾の声が僅かに低くなる。
「抜けた歯が戻ったんじゃない。別の歯だ」
「どこが違うの?」
美怜が画面を覗き込む。
「昨日落ちたのは小さな乳歯だった。増えたのは永久歯。咬合面に白い充填材がある」
奥歯の溝を埋めるように、歯とは質感の違う白いものが詰められている。端だけが僅かに黄ばみ、片側には針先ほどの黒い染みがあった。
「その詰め方、見たことある」
美怜は呟き、イオを見た。
イオは返事をしなかった。
長机から半歩離れ、唇を閉じたまま舌を動かしている。右の頬、左の頬。舌先で内側を探る動きに合わせ、表情から笑みが消えていった。
「どうしたの?」
「何でもない」
「口、気にしてるじゃん」
「昨日、噛み締めすぎて変なだけ」
イオは背を向け、鞄から小さな鏡を出した。口紅を直すふりをして唇を開き、奥へ指を入れる。
呼吸が止まった。
左下の奥歯。
舌で触れれば、いつもざらついた白い詰め物があった。半年前、虫歯を削って埋めた場所だ。食べ物が挟まるたび、舌先で触れていたから形まで覚えている。
そこが平らになっていた。
歯がない。
抜けた穴も、腫れた歯茎もない。初めからそこには何も生えていなかったように、薄桃色の肉が滑らかに続いている。
治療した夜、麻酔が切れてから何時間も疼いたことを覚えている。頬を冷やしながら撮った写真も残っている。治療前の黒い穴も、治療後の白い詰め物も、イオ自身が短い動画にして投稿していた。
なくなるはずがない。
痛みもなく、血も流さず、歯だけが消えるはずがなかった。
「嘘」
鏡へ吐いた息が白く曇る。
「何がないの?」
美怜が肩越しに鏡を覗く。
イオは慌てて口を閉じた。
「何もないって」
「見せて」
「嫌。近い」
美怜が顎をつかみ、燈夜も面白がって後ろからイオの肩を押さえた。
「ほら、歯科検診」
「やめてって!」
笑い混じりだった声が鋭くなる。
逃れようと顔を振った拍子に、撮影用ライトが開いた口の奥を照らした。
怜吾のカメラがその瞬間を捉える。
左下の歯列に、不自然な空白があった。
血は一滴もない。隣の歯にも欠けた跡はなく、歯茎には傷一つ見当たらない。
部室が静まり返る。
空調の低い音と、燈夜の煙草が燃える微かな音だけが残った。
「前からなかったんじゃない?」
美怜が先に口を開く。
「あったし」
イオは反射的に答え、すぐに唇を噛んだ。
「治療してるなら記録がある」
怜吾が人形の歯を拡大する。
「イオ。詰め物の位置は?」
「左の下……奥から二番目」
モニターに映った新しい歯も、左側へ押し込まれていた。
咬合面の白い詰め物。端の黄ばみ。針先ほどの黒い染み。
イオは鏡を握り締めた。縁の飾りが掌へ食い込んでも、指を緩めない。
『イオの歯じゃん』
『前の歯医者動画と詰め物の形が同じ』 『仕込みなら歯医者まで仕込んだの?』 『口の中見せて』 『人形がさっきから咀嚼してる』「咀嚼?」
怜吾が接写映像へ視線を戻す。
人形の下顎が動いていた。
ほんの僅かだった。映像を拡大しなければ、手袋をした怜吾の指が揺らしたようにしか見えない。
だが怜吾はもう触れていなかった。
下顎が左右へずれる。
上の歯と下の歯が触れ、離れ、また触れる。
白い詰め物のある奥歯が、虫歯の黒い歯へ擦り合わされる。
ぎり。
ぎり、ぎり。
集音マイクから、湿った咀嚼音が響いた。
人形の頬に走った亀裂から、細かな白い粉が落ちる。閉じかけた唇の隙間で、三十三本の歯が互いを砕こうとするように動いていた。
イオが後ずさり、ソファへ膝裏をぶつける。
「止めて」
「誰に言ってる?」
美怜の声も硬かった。
「配信。止めてよ」
昨日、止めろと言われるほど踏みつけた女と同じ声には聞こえなかった。
美怜は接続数を見た。
二万四千。
今も増え続けている。
「今止める方が不自然でしょ」
「私の口、映ってるんだよ」
「もう映ったあとじゃん。それに差し歯なんでしょ?」
美怜は、逃げ道を与えるように言った。
イオは数秒黙り、カメラが自分を向いていることへ気づく。呼吸を整え、頬へ貼りついた髪を耳にかけた。
「そう。差し歯」
引きつった唇を持ち上げる。
「外して仕込んだだけ。みんな本気で信じすぎ」
「いつ外したの?」
怜吾が尋ねる。
「それ言ったら仕掛けにならないじゃん」
「差し歯を外しても歯茎はあの形にならない」
「怜吾、空気読んで」
イオの声が冷えた。
コメント欄へ、同じ報告が続けて流れた。
『イヤホン外しても噛む音する』
『配信閉じたのに聞こえる』 『画面閉じても噛む音がする』 『スマホの電源切ったのに』美怜は乾いた笑いを漏らす。
「はいはい、集団で盛らなくていいから」
そう言いながら、自分の奥歯を強く噛み合わせていた。
人形の口は、配信を切るまで動き続けた。
*
午後十一時四十七分。
怜吾は一人で編集室に残っていた。
検証配信を二十二分の動画へまとめ、音量と色を調整し、投稿を終えたところだった。イオが歯の欠損を認める部分は本人の希望で短くしたが、完全には削っていない。隠せばかえって疑われるというのが、美怜と燈夜の判断だった。
書き出す前に、すべての音声を確認した。
美怜たちの声。空調。機材を動かす音。人形が歯を擦り合わせた、不快な咀嚼音。
咀嚼が始まるのは、映像の十四分三十二秒から。
それ以前の音声には入っていなかった。
投稿から十分後、最初のコメントが付いた。
『最初からずっと何か噛んでない?』
怜吾は再生位置を冒頭へ戻した。
人形はまだ戸棚の中。画面には封印したテープしか映っていない。
その背後で、硬いもの同士が触れた。
こり。
こり、こり。
音量をゼロにしても、数秒だけ音が残った。
怜吾はスピーカーの電源を落とした。編集室が静まり返ったあとも、机の裏側から、こり、と一度だけ聞こえる。床へ膝をつき、配線と機材を確かめたが、音の出るものはなかった。
立ち上がると、停止中の再生画面で人形の唇が僅かに開いていた。
戸棚の封印を確認しているだけの場面だ。人形そのものは映っていない。それでも黒い画面の反射に、歯を並べた白い口だけが浮かんでいる。
怜吾は再生を止める。
音も止まった。
編集前のデータを開く。同じ箇所は無音だった。
投稿用に書き出したファイルも確認する。そこにもない。
サイトへ投稿された映像にだけ、音が追加されている。
怜吾は動画を保存し直し、音声波形を解析画面へ読み込んだ。
波形は一つではなかった。
高い音、低い音、湿った音。大きさの異なる何本もの歯が、硬い何かを順番に噛んでいる。
こり。
ばき。
ごり。
映像の中でイオが笑うたび、その音は大きくなった。
やがて、硬いものが砕けた。
小さな破片を舌の上で集めるような音のあと、子どもの声が囁く。
「もう一本」
編集画面の隅で、投稿済み動画の音声トラック数が一から二へ変わった。
怜吾が触れる前に、新しいトラックへ赤い波形が伸び始めた。
夕暮れの繭守邸は、燃える前から焦げた匂いがしていた。 雨の気配を含んだ風が、伸び放題の雑草を低く撫でていく。庭の中央には、錆びた鉄製の脚立を横倒しにして作った台が置かれ、その上へ白い人形が座らされていた。 黒髪はすでに腰を越え、地面へ垂れている。 鬼束美怜はカメラ越しにそれを見つめ、無意識に奥歯を舌で確かめた。 全部ある。 けれど、歯茎の奥にはまだ鉄の味が残っている。「画角、これでいい?」 茅森イオが三脚の位置を調整しながら訊く。 蜂蜜色の髪を高い位置で結び、今日は黒いマスクを顎へ下げていた。左下の奥歯を失ったためか、笑う時に口元へ手を添える癖がついている。「人形と灯油、両方入ってる」 津守怜吾がモニターから目を上げずに答えた。 左手の小指には黒い布が巻かれている。その下には、本人のものより小さな子どもの爪が生えている。切ろうとしても、刃を当てるたび別の指が痛んだため、今朝から触れていない。 轟木燈夜は、庭の隅から赤いポリタンクを運んできた。「こんだけあれば足りるだろ」「全部かけるつもり?」 斑鳩ちとせが訊いた。「燃え残ったら意味ねえだろ」「意味って何」「完全に壊す。それで終わり」 燈夜は右腕を一度振った。 病院で消えた指骨は画像には映らなくなったが、腕の内側には五本指の痣が残っている。時折、皮膚の下を硬いものが移動するように疼く。それでも彼は、誰にも見せまいと袖を下ろしたままだった。 ちとせだけが、人形から離れて立っている。 長袖の下では、赤白の組紐が皮膚へ沈んでいる。紐の中から生えた細い髪は朝には見えなくなっていた。しかし結び目に触れると、脈のような振動が返ってくる。「燃やした記録ってあるの?」 美怜が訊く。「何が」「この人形。昔、燃やそうとした人とか」 ちとせの視線が一瞬だけ屋敷へ向いた。「知らない」「その間、何」「何でもないよ」 美怜は追及しなかった。 最近のちとせは、知らないと言う前に必ず一拍置く。その短い沈黙を、燈夜も怜吾も気づいている。イオだけは気づいていないふりをしていた。 配信開始まで、あと三分。 怖いなら、壊せ。 いつもの言葉だった。 それなのに、今は喉の奥へ小骨が刺さったように引っかかる。 人形の黒髪が風に揺れた。 一房だけ、ちとせの方角へ伸びる。 ちとせは袖の中
第20話 骨が一本足りない 医師は、モニターに映った白い影を三度見直した。 燈夜の右腕を写した画像には、橈骨と尺骨の間へ細い指骨が絡みつき、関節を曲げた小さな指のように前腕を掴んでいる。さらに手首の内側からは、肉へ繋がっていない六本目の指が伸びていた。 それでも診察室にいた医師は、燈夜の顔より先に機械を疑った。「画像の重なりか、検出器の不具合でしょう」「骨が一本増えてんのに、故障で済ませるのかよ」 燈夜は丸椅子から立ち上がった。右腕を庇うように胸へ寄せている。包帯の下で、爪のない小指が脈打っていた。「通常、こういう形で異物が入り込めば、腫れや発熱だけでは済みません。血管や神経にも影響が出るはずです」「痛えって言ってんだろ」「ですから、再撮影します」 医師の声は冷静だったが、モニターへ向けた指先がわずかに震えていた。 深夜の救急外来は静かだった。廊下を運ばれるワゴンの車輪と、遠くで鳴る呼び出し音だけが薄い壁を越えて響いてくる。消毒液の匂いが鼻の奥へ張りつき、燈夜の苛立ちをさらに尖らせていた。 再び撮影室へ入る。 技師が腕の位置を直し、冷たい板の上へ右腕を置かせる。燈夜は肩を強張らせたまま、機械の四角い影を睨んだ。「動かないでください」「分かってる」 照射を知らせる音が鳴る。 その一瞬、燈夜の皮膚の下で何かが動いた。 肘の内側から手首へ。 細い節を折り曲げながら、肉の中を這う。「待て」 燈夜が腕を引こうとする。「動かさないで!」 技師の声と同時に、白い光が落ちた。 動きは消えた。 再撮影された画像には、異物は何も映っていなかった。 二本の前腕骨。手首。五本の指。 先ほどまで絡みついていた指骨も、六本目の指もない。 医師は安堵したように息を吐いた。「やはり機器側の問題です。最初の画像は破棄して、点検へ回します」「じゃあ、この痛みは何だ」「打撲と爪の損傷でしょう。鎮痛薬を出しますので――」 燈夜は右袖を肘まで捲り上げた。 言葉が止まった。 前腕の内側へ、青黒い痣が浮かんでいる。 一本ではない。 親指を含む五本の指跡が、内側から腕を掴んだ形で残っていた。皮膚の表面を押さえられた痣ではない。肉の奥から外へ向かって指を立て、そのまま強く握り込んだような跡だった。 手首に近い部分には、小さな爪先の形まで浮い
昼の繭守邸は、夜よりも荒れて見えた。 傾いた屋根。雨を吸って黒ずんだ外壁。割れた窓へ内側から垂れる、長い染み。陽が出ているにもかかわらず、庭の奥には薄い霧が残り、裏手の藪だけが夜の続きのように沈んでいた。 午前十一時。 大学を休んだ五人は、スコップと折り畳み鍬、撮影機材を車から降ろしていた。「昨日の配信、百三十万いってる」 茅森イオがスマートフォンを掲げる。 画面には、美怜が眠ったまま土を掘る姿が表示されていた。切り抜き動画はすでにいくつも作られ、赤い子ども靴が出てくる場面だけを繰り返す短い映像が拡散されている。「朝からずっと増えてる。うちの過去最高、普通に超えるよ」「なら、出た場所を掘るしかねえだろ」 轟木燈夜は肩へスコップを担いだ。 右手の小指には厚く包帯が巻かれている。爪を失った傷は塞がらず、皮膚の下へ入り込んだ赤い糸も消えていない。それでも燈夜は手袋を重ね、何事もなかったように機材を運んでいた。 鬼束美怜は車のドアに寄りかかり、靴先を見つめていた。 今日は厚底のブーツを履いている。 昨夜、ベッドの下にあった赤い子ども靴は消えた。 母の沙和が帰宅した時には、床へ乾いた土だけが残っていた。何をしたのかと問い詰められ、美怜は撮影用の小道具を持ち帰ったと嘘をついた。 眠ったまま屋敷へ歩いたことも、視聴者の投票に従って穴を掘ったことも言えなかった。 爪の中へ入った土は、洗っても取れなかった。 黒い粒が皮膚の下へ沈み、爪の奥で赤い糸と絡んでいる。「本当に配信するの?」 斑鳩ちとせが訊いた。 今日は手首の組紐を長袖で隠している。繭守邸へ着いてから、屋敷も井戸も見ようとせず、美怜が掘った場所だけを凝視していた。「するに決まってんじゃん」 美怜は顔を上げた。「私が寝てる間に勝手に配信されたんだよ。だったら、今度は起きてる私たちが続きを見せる」「土の中から何が出るか分からない」「赤い靴でしょ。片方はもう出た」「靴だけとは限らない」 ちとせの言葉に、燈夜が鼻を鳴らした。「だったら余計に撮れ高あるだろ」「人の物が出たら、警察へ連絡する」「出てから言え」 津守怜吾は会話へ加わらず、固定カメラを三台設置していた。 一台は美怜が掘った穴を正面から。 一台は井戸と穴の両方が入る角度。 もう一台は高い木の枝へ固定し、五人
頬に冷たいものが触れていた。 雨粒ではない。 濡れた布でもない。 土だった。 鬼束美怜が目を開けると、見慣れた自室の天井が薄明かりの中に浮かんでいた。カーテンの隙間から朝の光が差し込み、壁へ細長い影を落としている。 枕元では、スマートフォンの画面が明るく点灯していた。 誰かが喋っている。 音量は小さい。囁きに近い声が、途切れ途切れに聞こえてくる。「……右」「もっと、右」「そこじゃない」 子どもの声ではなかった。 読み上げ機能の、温度のない合成音声だった。 美怜は身体を起こそうとした。 両腕へ鈍い痛みが走る。「っ……」 肘から先が重い。肩も、背中も、長く同じ動作を繰り返した後のように張っている。 布団を捲った瞬間、美怜は動きを止めた。 両足が泥だらけだった。 素足の指から踵まで、黒い土が厚くこびりついている。乾いた泥がシーツへ剥がれ落ち、薄茶色の染みを広げていた。 寝間着の膝にも土がついている。 右膝の布は破れ、皮膚が赤く擦れていた。左の脛には草で切ったような細い傷が何本も走っている。 両手を持ち上げる。 爪の中へ、黒い土が詰まっていた。 派手に塗ったネイルは端から剥がれ、一本は中央から割れている。爪と皮膚の隙間に入り込んだ土の奥で、赤い糸が細く脈打っていた。 美怜は息を止めた。 昨夜、繭守邸から帰った記憶はある。 壁の中から舌が伸びた。 頬を舐められた。 六つ目を意味する文字が皮膚へ残った。 その後は、乳歯や爪の入った袋を持たず、帳面だけを機材ケースへ入れ、五人で屋敷を出た。森部を置いて帰るかどうかで燈夜と怜吾が言い争い、最終的には森部を最寄りの交番近くまで車で送った。 自宅へ着いたのは、午前二時を過ぎていた。 シャワーを浴びた。 母はまだ帰っていなかった。 部屋へ入り、スマートフォンを充電器へ繋いだ。 そこまでは覚えている。 今、充電器の先には何もない。 スマートフォンは枕元に置かれ、生配信の画面を映していた。 視聴者数は一万八千を超えている。「何、これ」 自分の声が掠れた。 画面には、夜の繭守邸が映っていた。 映像がわずかに上下している。 撮影者は歩いていた。 背の高い草を掻き分け、屋敷の脇を通り、裏庭へ続く道を進んでいる。 画面の中央に、美怜の背中があった。 薄い寝
第17話 壁の中の子守唄 帳面に浮かんだ「採取開始」の文字は、頁を閉じても消えなかった。 黒布の表紙を透かし、濡れた墨のような染みが五人の名前を覆っている。怜吾は帳面を油紙へ包み直し、機材ケースの最も奥へ押し込んだ。 井戸の蓋は、再び閉じることができなかった。 立ち上がった木板を燈夜と怜吾が地面へ倒そうとしても、裏側から生えた白い指が石の縁へしがみつき、びくともしない。指をバールで叩けば、五人の爪の裏側へ同じ衝撃が返り、赤い糸が肉の奥で震えた。 森部忠一は、もう井戸を見ようとしなかった。「屋敷から出ろ」 何度目か分からない言葉を、掠れた声で繰り返す。「井戸を開けたなら、ここにいてはいけない。日が昇るまで待つな。帳面も置いていけ」「それを持ち帰られたくないだけだろ」 燈夜は右手を押さえながら言った。 剥がれた小指の爪の下から、赤い糸が細く覗いている。土と血で汚れた包帯は、いつの間にか緩み、先端が風もないのに井戸の方角へ揺れていた。「警察に見せたら、あんたらが昔隠したことも全部出る」「出して構わん」 森部の返事は早かった。「ただし、それを屋敷の外へ持ち出せればの話だ」 美怜の親指が疼いた。 爪の下へ入り込んだ糸が、帳面のある機材ケースへ引かれている。赤いもの同士が互いの位置を確かめ合っているようだった。 その時、屋敷の中から歌声が聞こえた。 細く、穏やかな女の声。 夜泣きする子どもへ聞かせるように、同じ短い旋律を繰り返している。 美怜は息を止めた。 聞き覚えがあった。「お母さんの歌」 唇から声が漏れる。 鬼束沙和が幼い頃の美怜へ歌っていた子守唄だった。 美怜が熱を出した夜。雷を怖がり、母の寝具へ潜り込んだ夜。沙和は決して上手ではない歌を、同じ場所でわずかに音程を外しながら歌った。 屋敷から聞こえる歌も、その外し方まで同じだった。「録音じゃないの?」 イオが屋敷を見上げる。 黒い窓の一つに、室内の灯りが映った。 誰も点けていない。 二階ではなく、一階の奥。仏間のある方角だった。「沙和さん、ここに来たことある?」 ちとせが訊く。「あるわけないでしょ」 美怜の声は強くなった。「そもそも、この場所を知らない」 子守唄が途切れた。 夜の庭へ、沈黙が落ちる。 森部が屋敷へ背を向けたまま、震える息を吐い
井戸から噴き出した髪は、地面へ落ちなかった。 濡れた黒い束が生き物の脚のように石積みへ絡みつき、蓋の裏から伸びた白い指を覆い、森部忠一の足首を掠めていく。五人は悲鳴も上げられず、藪の向こうへ後ずさった。 美怜の懐中電灯が激しく揺れる。 光の輪の中で、髪は一度だけ大きく膨らんだ。 内側から、何十人もの顔が押しつけられたような形になった。 額。鼻。開いた口。 どれも黒い髪の膜を破れず、声だけが湿った束の奥で重なる。「まだ見てる?」 「開けて」 「返して」 「ひとつ、もらった」 五人の配信で繰り返されてきた声が、同時に吐き出された。「走れ!」 怜吾の怒声で、美怜はようやく身体を動かした。 燈夜がイオの腕を掴み、藪へ引く。ちとせは倒れた森部の肩を支えた。髪の先端が五人の靴を追ったが、井戸の縁から三メートルほど離れたところで、見えない鎖に引かれたように止まる。 髪は地面を掻いた。 土へ何本もの筋が刻まれる。 その一筋一筋が、文字になった。 おそい。 直後、井戸の中へすべての髪が引き戻された。 ざあっ、と大量の水が落ちるような音がして、裏庭が静まり返る。 蓋は壊れたまま。 無数の釘は泥の上へ散らばり、切れた赤白の糸が草へ絡んでいる。井戸口からは冷気だけが細く立ち上っていた。 森部は地面へ膝をつき、胸を押さえていた。「出た」 掠れた声が漏れる。「とうとう、外へ出た」「何がだよ」 燈夜はバールを握ったまま振り返った。額には汗が浮かび、肩が大きく上下している。「あれが何なのか、知ってんだろ」 森部は燈夜を見なかった。 井戸を見つめたまま、何度も首を横へ振る。「人形師が集めたものだ。骨も、髪も、歯も、声も。捨てられたもの、奪われたもの、戻れなくなったもの……全部を、あそこへ沈めた」「人形師って、屋敷の持ち主?」 美怜が訊く。 口の中には、まだかすかに血の味が残っていた。話すたび、歯茎の奥が疼く。「繭守冬一郎」 森部の唇が、その名を嫌うように歪んだ。「人を写すんじゃない。人の一部を寄せ集めて、人に似たものを作った。あの白い人形も、その一つだ」「帳面は?」 ちとせが突然訊いた。 森部の顔が上がった。 その反応を、怜吾は見逃さなかった。「帳面があるのか」「知らない」「今、あるって顔した」「お前らに