로그인白い市松人形は、大学の備品棚で一晩を過ごした。
映像研究会の部室、その一番下にある金属製の戸棚。怜吾は機材箱ごと人形を入れ、扉へ養生テープを三重に貼った。剥がせば跡が残るよう、テープの端には黒いペンで自分の署名も入れていた。
翌日の午後、署名は切れていなかった。
鍵にも傷はなく、戸棚の中の機材箱も昨夜と同じ位置にある。
ただし、赤黒い布からあふれた髪だけが箱を越え、棚板から床まで垂れていた。
「一晩で十五センチ」
怜吾が定規を添え、カメラを回す。
「昨日の映像と比較すれば、誤差では済まない」
「やっと信じた?」
ちとせは窓際に立ち、人形から距離を取っていた。
「髪が伸びたことと、幽霊の存在は別だ。内部に髪を送り出す仕掛けがあるかもしれない」
「鍵閉めてたの、怜吾でしょ」
「だから先に封印の状態を撮った」
机の上には、昨夜よりも多くの機材が並んでいた。小型カメラ、接写レンズ、集音マイク、紫外線ライト、精密秤。怜吾は自宅へ帰らず、そのまま編集室で夜を明かしたらしい。青白い顔の下には薄い隈が浮かんでいるが、指先の動きに眠気はなかった。
燈夜は窓を開け、禁煙の部室で煙草へ火をつけた。
「仕掛けなら壊して見せりゃいい。腹、切ってみるか?」
「壊す前の記録が先」
「昨日からそればっかだな」
「おまえが先に壊すからだよ」
怜吾は機材箱を両手で持ち上げ、中央の長机へ移した。
箱の底で、人形の歯が小さく鳴った。
イオの肩が強張る。
彼女は昨日とは違う白い厚底靴を履いていた。人形の歯が挟まっていた靴は、朝になると溝だけを深く抉られた状態で玄関に転がっていたという。歯は見つからなかった。
「捨てたの?」
美怜が尋ねる。
「あんな汚いの、もう履かないし。歯もどっか行った」
「記念に取っとけば売れたのに」
「欲しい人いる?」
イオは軽く笑い、スマートフォンで自分の顔を確認した。蜂蜜色のボブは丁寧に巻かれ、左右の瞳には新しいカラーコンタクトが入っている。寝不足を隠すように化粧は濃かった。
怜吾が遮光カーテンを閉める。
午後の日差しが消え、部屋には撮影用ライトの白さだけが残った。古いソファ、壁へ貼られた映画祭のポスター、飲みかけのペットボトル。見慣れた部室の中央で、白い人形だけが別の場所から切り取られてきたように浮いている。
「限定配信、開けるよ」
美怜が配信用端末へ触れた。
昨夜の騒ぎで登録者は一万人以上増えていた。告知から数分しか経っていないのに、待機人数はすでに八千を越えている。
「今日は〈KOWASU〉特別検証。人の中身で作られたっていう白い子ちゃんを、怜吾先生が丸裸にしまーす」
「裸にするのは外側の記録が終わってから」
「細か」
美怜は人形の髪を左右へ分け、亀裂の入った顔をカメラへ向けた。
イオに踏まれた額から頬へ、枝のようなひびが広がっている。欠けた箇所から陶器に似た白い層が見えるが、その奥は黒かった。口元には歯が隙間なく並び、昨夜抜けたはずの場所がどこなのか分からない。
「歯、戻ってない?」
美怜が顔を近づける。
「昨日、一本抜けたよね」
「映像と照合する」
怜吾は手袋をはめ、人形の顎へ指を添えた。抵抗するように閉じていた口をゆっくり広げ、小型カメラの先端を近づけていく。
モニターへ、人形の口内が大きく映し出された。
乾いて縮んだ暗赤色の歯茎。その上下に、形の異なる歯が密集している。
前歯の隣に奥歯があり、細い乳歯と黄ばんだ永久歯が同じ場所から生えていた。黒い穴の開いた虫歯。銀色の金属が詰められた歯。角の欠けた犬歯。根元へ赤い繊維を絡ませた、小さすぎる歯。
一人分の歯列ではなかった。
「作ったやつ、並べ方適当すぎない?」
燈夜が煙を吐きながら笑う。
「適当というより、空いているところへ順に足したように見える」
怜吾は映像を静止させ、一本ずつ番号を振り始めた。
「上に十七。下に十六」
「合計は?」
「三十三」
怜吾は画像の明度を上げ、歯茎との境目を拡大した。
接着剤で貼りつけたような継ぎ目はない。どの歯も暗赤色の組織へ根元から埋まり、細い血管に似た筋が絡んでいる。乾いているはずなのに、ライトの熱を受けるたび歯茎の奥から透明な液が滲んだ。
最も古そうな金属の詰め物には黒い腐食が広がり、その隣の歯には新しい治療跡がある。作られた年代が違うのではない。異なる時代、異なる口から抜かれたものが、一つの口へ無理に並べられているようだった。
「模型なら、こんな治療跡まで一つずつ変える意味がない」
怜吾の声から、いつもの皮肉が薄れていた。
ちとせの表情が固まる。
「成人でも、親知らずを全部含めて三十二本」
「一本多いじゃん」
美怜が笑った。
「歴代所有者の歯だったりして。持ち主が替わるたび、記念に一本ずつもらうの」
「歯は身体の中で、持ち主の名を覚えるものだって言われてた」
ちとせが呟く。
「抜けた乳歯を屋根や床下へ投げるのも、次の歯が正しい場所へ戻るように道を教えるため。違う身体に入れたら、その道も――」
「また始まった」
燈夜が遮る。
「三十三本あるなら、一本抜いて調べりゃ済むだろ」
ピンセットへ手を伸ばした燈夜を、怜吾が肘で押し返した。
「歯の特徴を全部記録してからだ」
接写映像がゆっくり右へ動く。
一つとして同じ色がない。年齢も手入れの状態も、治療法も違っている。生え替わる前の乳歯と、歯茎が下がった老人のものらしい歯が隣り合い、その間へ新しい白さの奥歯が押し込まれていた。
コメントが加速する。
『三十三本はおかしい』
『歯医者に見せろ』 『銀歯古すぎない?』 『乳歯混じってる』 『昨日抜けた歯どれ』怜吾は昨夜の映像を別のモニターへ表示した。
踏みつけられる直前の人形の口元。解像度を上げ、現在の歯列と重ね合わせる。
昨夜にはなかった白い歯が、下顎の奥に一本増えていた。
「追加されてる」
怜吾の声が僅かに低くなる。
「抜けた歯が戻ったんじゃない。別の歯だ」
「どこが違うの?」
美怜が画面を覗き込む。
「昨日落ちたのは小さな乳歯だった。増えたのは永久歯。咬合面に白い充填材がある」
奥歯の溝を埋めるように、歯とは質感の違う白いものが詰められている。端だけが僅かに黄ばみ、片側には針先ほどの黒い染みがあった。
「その詰め方、見たことある」
美怜は呟き、イオを見た。
イオは返事をしなかった。
長机から半歩離れ、唇を閉じたまま舌を動かしている。右の頬、左の頬。舌先で内側を探る動きに合わせ、表情から笑みが消えていった。
「どうしたの?」
「何でもない」
「口、気にしてるじゃん」
「昨日、噛み締めすぎて変なだけ」
イオは背を向け、鞄から小さな鏡を出した。口紅を直すふりをして唇を開き、奥へ指を入れる。
呼吸が止まった。
左下の奥歯。
舌で触れれば、いつもざらついた白い詰め物があった。半年前、虫歯を削って埋めた場所だ。食べ物が挟まるたび、舌先で触れていたから形まで覚えている。
そこが平らになっていた。
歯がない。
抜けた穴も、腫れた歯茎もない。初めからそこには何も生えていなかったように、薄桃色の肉が滑らかに続いている。
治療した夜、麻酔が切れてから何時間も疼いたことを覚えている。頬を冷やしながら撮った写真も残っている。治療前の黒い穴も、治療後の白い詰め物も、イオ自身が短い動画にして投稿していた。
なくなるはずがない。
痛みもなく、血も流さず、歯だけが消えるはずがなかった。
「嘘」
鏡へ吐いた息が白く曇る。
「何がないの?」
美怜が肩越しに鏡を覗く。
イオは慌てて口を閉じた。
「何もないって」
「見せて」
「嫌。近い」
美怜が顎をつかみ、燈夜も面白がって後ろからイオの肩を押さえた。
「ほら、歯科検診」
「やめてって!」
笑い混じりだった声が鋭くなる。
逃れようと顔を振った拍子に、撮影用ライトが開いた口の奥を照らした。
怜吾のカメラがその瞬間を捉える。
左下の歯列に、不自然な空白があった。
血は一滴もない。隣の歯にも欠けた跡はなく、歯茎には傷一つ見当たらない。
部室が静まり返る。
空調の低い音と、燈夜の煙草が燃える微かな音だけが残った。
「前からなかったんじゃない?」
美怜が先に口を開く。
「あったし」
イオは反射的に答え、すぐに唇を噛んだ。
「治療してるなら記録がある」
怜吾が人形の歯を拡大する。
「イオ。詰め物の位置は?」
「左の下……奥から二番目」
モニターに映った新しい歯も、左側へ押し込まれていた。
咬合面の白い詰め物。端の黄ばみ。針先ほどの黒い染み。
イオは鏡を握り締めた。縁の飾りが掌へ食い込んでも、指を緩めない。
『イオの歯じゃん』
『前の歯医者動画と詰め物の形が同じ』 『仕込みなら歯医者まで仕込んだの?』 『口の中見せて』 『人形がさっきから咀嚼してる』「咀嚼?」
怜吾が接写映像へ視線を戻す。
人形の下顎が動いていた。
ほんの僅かだった。映像を拡大しなければ、手袋をした怜吾の指が揺らしたようにしか見えない。
だが怜吾はもう触れていなかった。
下顎が左右へずれる。
上の歯と下の歯が触れ、離れ、また触れる。
白い詰め物のある奥歯が、虫歯の黒い歯へ擦り合わされる。
ぎり。
ぎり、ぎり。
集音マイクから、湿った咀嚼音が響いた。
人形の頬に走った亀裂から、細かな白い粉が落ちる。閉じかけた唇の隙間で、三十三本の歯が互いを砕こうとするように動いていた。
イオが後ずさり、ソファへ膝裏をぶつける。
「止めて」
「誰に言ってる?」
美怜の声も硬かった。
「配信。止めてよ」
昨日、止めろと言われるほど踏みつけた女と同じ声には聞こえなかった。
美怜は接続数を見た。
二万四千。
今も増え続けている。
「今止める方が不自然でしょ」
「私の口、映ってるんだよ」
「もう映ったあとじゃん。それに差し歯なんでしょ?」
美怜は、逃げ道を与えるように言った。
イオは数秒黙り、カメラが自分を向いていることへ気づく。呼吸を整え、頬へ貼りついた髪を耳にかけた。
「そう。差し歯」
引きつった唇を持ち上げる。
「外して仕込んだだけ。みんな本気で信じすぎ」
「いつ外したの?」
怜吾が尋ねる。
「それ言ったら仕掛けにならないじゃん」
「差し歯を外しても歯茎はあの形にならない」
「怜吾、空気読んで」
イオの声が冷えた。
コメント欄へ、同じ報告が続けて流れた。
『イヤホン外しても噛む音する』
『配信閉じたのに聞こえる』 『画面閉じても噛む音がする』 『スマホの電源切ったのに』美怜は乾いた笑いを漏らす。
「はいはい、集団で盛らなくていいから」
そう言いながら、自分の奥歯を強く噛み合わせていた。
人形の口は、配信を切るまで動き続けた。
*
午後十一時四十七分。
怜吾は一人で編集室に残っていた。
検証配信を二十二分の動画へまとめ、音量と色を調整し、投稿を終えたところだった。イオが歯の欠損を認める部分は本人の希望で短くしたが、完全には削っていない。隠せばかえって疑われるというのが、美怜と燈夜の判断だった。
書き出す前に、すべての音声を確認した。
美怜たちの声。空調。機材を動かす音。人形が歯を擦り合わせた、不快な咀嚼音。
咀嚼が始まるのは、映像の十四分三十二秒から。
それ以前の音声には入っていなかった。
投稿から十分後、最初のコメントが付いた。
『最初からずっと何か噛んでない?』
怜吾は再生位置を冒頭へ戻した。
人形はまだ戸棚の中。画面には封印したテープしか映っていない。
その背後で、硬いもの同士が触れた。
こり。
こり、こり。
音量をゼロにしても、数秒だけ音が残った。
怜吾はスピーカーの電源を落とした。編集室が静まり返ったあとも、机の裏側から、こり、と一度だけ聞こえる。床へ膝をつき、配線と機材を確かめたが、音の出るものはなかった。
立ち上がると、停止中の再生画面で人形の唇が僅かに開いていた。
戸棚の封印を確認しているだけの場面だ。人形そのものは映っていない。それでも黒い画面の反射に、歯を並べた白い口だけが浮かんでいる。
怜吾は再生を止める。
音も止まった。
編集前のデータを開く。同じ箇所は無音だった。
投稿用に書き出したファイルも確認する。そこにもない。
サイトへ投稿された映像にだけ、音が追加されている。
怜吾は動画を保存し直し、音声波形を解析画面へ読み込んだ。
波形は一つではなかった。
高い音、低い音、湿った音。大きさの異なる何本もの歯が、硬い何かを順番に噛んでいる。
こり。
ばき。
ごり。
映像の中でイオが笑うたび、その音は大きくなった。
やがて、硬いものが砕けた。
小さな破片を舌の上で集めるような音のあと、子どもの声が囁く。
「もう一本」
編集画面の隅で、投稿済み動画の音声トラック数が一から二へ変わった。
怜吾が触れる前に、新しいトラックへ赤い波形が伸び始めた。
斑鳩ちとせが古い資料を抱えて編集部室へ現れたのは、爪の転送経路を追い始めてから二日後だった。大判の封筒が三つ、大学図書館の複写印が入った冊子が二冊、それに角が茶色く変色した古いファイル。いつもの彼女なら何か一言くらい軽口を挟むところだったが、その日は入口から机まで無言で歩き、津守怜吾のパソコンの横へ資料を積み上げた。「何それ」 鬼束美怜が訊くと、ちとせは一番上の冊子を開いた。表紙には地方民俗研究会の名と、三十年以上前の発行年が記されている。学校の怪談や祭礼についてまとめた同人誌に近い資料らしく、紙は黄ばみ、何度も複写された文字の輪郭は潰れていた。「似た話、あった」 茅森イオが椅子から身を乗り出した。「メール?」「もっと前」「どれくらい?」「少なくとも二十年以上前。でも、そこからさらに遡れる」 ちとせの指が目次を滑る。美怜はその仕草を見ながら、また胸の奥へ引っかかるものを感じた。楢守小学校でも、ちとせは怪異の規則を知りすぎていた。赤白の組紐、返事をしてはいけない時刻、記録を壊すことへの警戒。どれも本人は民俗学で似た話を知っているだけだと説明したが、偶然で済ませるには回数が多い。「どこで見つけたの」 怜吾が訊いた。「大学の民俗資料室と、古い地域誌の索引。あと一部は複写を取り寄せた」「いつから探してた」 ちとせの指が一瞬止まる。「チェーンメールが来てから」「二日でここまで?」「索引が残ってたから」 怜吾はそれ以上追及せず、開かれた頁へ目を落とした。美怜には、その沈黙が納得ではないと分かった。 頁の見出しには、《七爪様について》とある。「ななつめさま?」 イオが読んだ。「地域によって呼び方が違う」 ちとせは別の資料を並べる。《爪回し》《七人便り》《七枚送り》《七つ返し》。名称も土地も年代も一定しない。それでも本文へ書かれた内容には、嫌になるほど似た部分があった。「これ」 ちとせが鉛筆で薄く印をつけた箇所を示す。 古い活字。 七人へ伝えろ。 その下。 止めた者が七つ失う。 美怜の背筋が冷えた。「同じじゃん」 轟木燈夜が資料を引き寄せる。「これ、今のメール見て作ったやつじゃねえの?」「発行年見て」「古い本に後から追加したとか」「これは国会図書館にも所蔵記録がある資料。発行自体はチェーンメールが広まるより
七本の爪を失った男が救急搬送された病院から連絡が入ったのは、翌日の午後だった。家族を通じて〈KOWASU〉へ提供された検査資料には、両手の断面画像と、緊急処置で摘出された硬組織の写真が添付されていた。鬼束美怜は編集部室の机へ肘をつき、画面いっぱいに表示された透明な標本袋を見つめた。袋の中には黄白色の薄い板が一本ずつ分けて入れられ、形だけを見れば、どれも人間の爪にしか見えなかった。 津守怜吾は病院側から家族へ渡された説明書類を拡大し、記載された所見を一行ずつ追った。指先から皮膚の内部へ伸びていた硬質物は、骨片でも人工物でもなく、爪甲に極めて近い角化組織だった。七本すべてが、外側から差し込まれた形ではなく、本人の爪床周辺から連続するように存在していたにもかかわらず、通常の成長方向とは逆に第一関節側へ潜り込んでいる。しかも摘出された一本には、爪の先端らしい白い遊離縁まで残っていた。「外に伸びてた爪を、裏返して入れたみたい」 茅森イオがそう言い、すぐ自分の右手を握った。赤白の組紐はまだ手首へ巻かれており、その下の皮膚には薄い圧痕が残っている。鏡やカメラから顔が消えた時ほどではないにせよ、自分の爪へ視線を落とす回数は明らかに増えていた。「でも、本人の爪なら説明は一つできる」 轟木燈夜がソファから身を起こした。彼は画像を見ても怯えた様子を見せず、むしろ原因へ近づいたことを歓迎しているようだった。「変な病気か薬で、爪の生える向きが逆になった。それだけなら怪談じゃない」「本人のならな」 怜吾の声が低くなった。美怜が横顔を見ると、彼は別の資料を開いていた。病院側が家族の同意を得て追加のDNA検査へ回した試料について、暫定的な結果が記載されている。「何」「摘出した七本から、本人とは一致しない遺伝情報が出てる」 燈夜の笑みが消えた。爪そのものは角化した組織で、状態によって解析できる情報量に差があるため、病院側は爪の裏面に付着していた微量組織も含めて調べていた。その結果、七本の試料から得られたDNA型は、いずれも搬送された男性本人のものと一致しなかった。「じゃあ誰の」 美怜が訊いた。「分からない。照合対象がないから個人までは出ない」「七本とも同じ人?」「違う」 怜吾が画面を切り替えた。試料一から七まで、それぞれ別の識別番号が振られている。少なくとも確認
午前零時を過ぎてから、津守怜吾は眠らなかった。新品のスマートフォンへ勝手に送信された二通のチェーンメールと、自分の薬指へ現れた黒い縦線を前にしても、彼が最初にしたのは指を隠すことではなく、これまで集まった受信者全員の記録を一つの表へ並べ直すことだった。美怜が最初に送った七人、西園航平が送った七人、その先で転送した者たち。連絡が取れる範囲だけでも二十人を超え、痛みの始まった時刻、黒線が出た時刻、転送の有無、病院での所見を一件ずつ入力していく。 美怜はソファに座ったまま、母から届いた短い連絡を何度も見ていた。沙和はまだ誰にもメールを送っていない。親指の内部へ伸びた爪状組織は残っており、鎮痛薬を使っても痛みは完全には消えないという。それでも《七人には送りません》という一文だけは変わらなかった。「これ、時間で進んでる」 夜明け前、怜吾が初めて口を開いた。美怜が顔を上げると、三台のモニターに受信者の記録が時系列で並んでいる。黒い点が最初に現れた時刻から、二本目、三本目へ進んだ時刻まで、赤い線で結ばれていた。「どれくらい?」「完全一致じゃない。でも近い」 怜吾は西園航平の記録を拡大した。最初の痛みが始まった時刻、その約七時間後に二本目の爪へ黒い点が出現している。別の受信者もほぼ同じで、六時間五十分から七時間二十分の範囲に収まっていた。「七時間ごと?」 イオが右手首の組紐を押さえた。ほとんど眠れていないらしく、目の下には薄い影がある。それでも自分の指先を何度も確認する癖だけは止まらない。「今ある情報ではそう見える。一度始まると、約七時間で次の爪へ移る」「順番は?」 燈夜が訊く。怜吾は別の表を出した。「最初は人差し指。次が中指。三本目が薬指。少なくとも確認できた十二人は全員同じ」「右手?」「最初に症状が出る側は違う。右から始まる人も左から始まる人もいる。でも同じ手の人差し指、中指、薬指の順番は崩れてない」 美怜は自分の右手を開いた。亀裂の消えた人差し指は綺麗なままだった。自分が七人へ送ったことで、その順番から外れたのか、それとも別の誰かへ続きを渡しただけなのか、考えるほど指先が冷たくなる。 怜吾は表の横へ、確認できた症例だけを抽出した一覧を表示した。航平は最初の黒線から二本目まで六時間五十八分。別の二十二歳女性は七時間十一分、二十四歳男性は七時間
鬼束沙和の右手親指に異常が出た日の夜、津守怜吾は編集部室の机をほとんど占領するほど機材を広げていた。ノートパソコンが三台、通信を切った検証用端末が二台、外付け記憶媒体、回収したワイヤレススピーカー、それに楢守小学校で見つけた八台の隠しカメラ。照明を落とした室内では複数の画面だけが青白く光り、その中央へ例のチェーンメールが表示されている。 美怜は母親が病院から戻ったという連絡を受けてから、何度もスマートフォンを確認していた。沙和は検査後も七人への転送を拒んでいる。親指内部の爪状組織はまだ短いものの、根元から明確に皮膚の内側へ入り込んでおり、鎮痛処置を受けても完全には痛みが消えていなかった。「母さん、まだ送ってない」「その方が比較はできる」 怜吾が画面から目を離さず答える。「比較って言い方しないでって言ったじゃん」「状態を追わないと止め方も分からない」「分かってるけど」 美怜はそれ以上言わなかった。自分が送ったせいで母親の指へ異常が起きているという事実は、知らない受信者から報告を受けた時よりずっと重かった。 燈夜は少し離れたソファへ座り、ペットボトルの水を飲みながら怜吾の作業を眺めている。イオは右手首の赤白の組紐を指で弄り、ちとせだけは窓際で静かに外を見ていた。ここ数日、彼女は美怜たちがメールについて話すたびに口数が減る。「で、何か分かった?」 燈夜が訊いた。「メールそのものに仕掛けがある」 怜吾が答えた。 美怜が顔を上げる。「呪いじゃなくて?」「少なくとも一部は人間が作ってる」 その言葉に、燈夜がすぐ笑った。「ほらな」「まだ全部とは言ってない」「でも人間なんだろ」「監視してる部分は、かなり可能性が高い」 怜吾はメールへ添付されている卒業写真を別画面へ移した。顔を失った児童たちの中央に〈KOWASU〉の五人、その後ろへ白い少女、さらに撮影側へ薄い人影が立つ画像だった。「普通に開いただけだとただの画像に見える。でもデータを分解すると、画像として必要のない領域がある」「何それ」 イオが椅子を寄せる。「隠し文字?」「文字よりコードに近い」 怜吾は解析結果を拡大した。美怜には英数字の羅列にしか見えない。画像の色情報とは別の位置へ、不自然な規則で並んだデータが埋め込まれている。「画像の中に?」「見た目には出ない。普通
美怜が母親へチェーンメールを送っていたことが発覚したのは、四十九人という数字が画面に現れた直後だった。 怜吾が転送経路を少しでも追おうと、五人それぞれの送信履歴を確認し始めた時、美怜の端末だけに七人以外の宛先が一件残っていた。 受信者名には《母》と表示され、送信時刻は昨夜の配信終了から三十分ほどあとになっている。「これ何」 怜吾が端末を美怜へ向けた。責める声ではなかったが、その平坦さがかえって逃げ道をなくしていた。「母親」「見れば分かる。何で送った」「身内でも同じ症状出るのか試したかった」 美怜はそう答えたあと、自分でも少し言葉が軽すぎたと思った。イオが目を見開き、燈夜さえ一瞬笑うのを忘れたように美怜を見る。ちとせは何も言わなかったが、机の縁へ置いた指先が僅かに強張った。「視聴者七人とは別に送ったの?」 イオが訊いた。「うん。七人送ったら私の爪が戻ったでしょ。そのあと、もう一件送ったらどうなるのかなって」「何でお母さんなの」「他人だと経過追えないじゃん。母なら連絡つくし、爪とか歯の変化も分かるから」「歯科衛生士だから?」「そう」 美怜の母、鬼束沙和は四十六歳で、駅前の歯科医院に長く勤めている。爪や皮膚の専門家ではないが、医療従事者なら異常があれば病院へ行く判断も早く、身体の変化を説明する時にも話が通じやすい。 美怜はそこまで考えて送ったのだと説明したが、口にすればするほど、それは母を選んだ理由というより、実験対象として都合がよかった理由に聞こえた。「本人には何て言ったの」 怜吾が訊く。「普通に、今こういうメール検証してるって」「危険性は?」「黒い線が出るかもしれないって言った」「爪が内部へ伸びることは」 美怜は黙った。 昨夜、沙和へ送った時点では航平の断面画像はまだ届いていなかった。黒線が何を意味するかも分からず、美怜自身の爪が楽になったことの方が強く印象に残っていた。だから《これ来たら七人に送ってみて》と、簡単な文章をつけて転送しただけだった。「電話する」 イオが言った。「今?」「当たり前でしょ」「もう夜遅いし」「それ関係ある?」 イオの声が強くなった。美怜は反射的に言い返しかけたが、航平の指の中へ伸びた白い組織が頭に浮かび、スマートフォンを手に取った。 * 沙和は三回目の呼
西園航平が七人へ転送すると決めたのは、救急車を待っている間だった。編集部室の机中央に置かれたから、十九歳の青年の浅い呼吸と、遠くで誰かが玄関を開ける音が聞こえている。右手中指の内部には逆向きの爪状組織が伸び、薬指にも二本目の黒い線が現れたばかりだった。美怜は何も異常のなくなった自分の右手人差し指を見つめながら、爪の裏へ何かが潜っていく痛みを想像しないようにしていた。『七人に送れば、本当に止まるんですよね』 航平の問いに、美怜はすぐ答えられなかった。昨夜、自分は七人へチェーンメールを転送し、その直後に繭守邸から残っていた爪の亀裂と異物感が消えた。ただし一例しかなく、同じことが航平にも起きる保証はない。それでも、何も起きなかったと誤魔化すこともできなかった。「少なくとも私は軽くなった。亀裂も消えた」『じゃあ送ります』「待ってください」 怜吾がすぐに身を乗り出した。誰に送るのか、事情を説明するのかと確認するが、航平は友人へ送ると答えたきり、余裕のない呼吸を繰り返した。次の瞬間には中指と薬指の痛みが同時に強まったらしく、通話の向こうで呻き声が漏れた。『今それ説明してる余裕ないです。また中で伸びてる。三本目まで来たらどうすんの』「でも送った七人にも同じことが起きるかもしれない」 イオが言うと、航平はしばらく黙った。組紐を握るイオの指先も白い。美怜も言葉を挟めなかった。『じゃあ俺に、このまま耐えろって言うんですか』 その一言で、誰も強く止められなくなった。航平は希望してメールを受け取ったが、体内へ爪が生えることまで承知したわけではない。美怜自身、自分の異常が軽くなった安心の裏側で、七人へ何を渡したのかをようやく理解し始めていた。『送ります』 画面の向こうで操作音が続いた。一人目、二人目と航平自身が数え、その後も短い送信音が五回鳴る。七人目を送り終えると、通話には彼の荒い呼吸だけが残った。「痛みは?」『まだあります』 美怜の胸が沈みかけた。二十秒ほどして航平が急に息を止める。スピーカー越しの呼吸まで変わった。『待って。弱くなってる』「どのくらい?」『痛いのは痛い。でも、動いてない。さっきまで爪の下に金属を突っ込まれて、そのまま奥へ押されてる感じだったのに、それが止まった』 怜吾は転送完了からの時間を記録し、感覚だけで判断しないよう念を押